朱舜水『楠正行像賛』

先日の四條畷楠正行の会発足三周年記念事業で、楠公父子の赤誠の生き様になぞらえて詩吟「過零丁洋」が披露されたので、少し触れたい。

この度、楠正行の会の扇谷代表の調査研究によって、朱舜水が湊川の楠公墓碑賛で知られる大楠公賛文のみならず、「楠正行像賛」も著していた事を発見、その賛文の中に「過零丁洋」の句からの引用があった事が分かったのだという。
朱舜水もまた、楠公父子の生き様に文天祥を重ねていたようだ。

さて、この漢詩は、中国は南宋末期の朝臣・文天祥が詠んだ七言律詩。...
文天祥については、現代では知る人は少ないが、戦前は大楠公と同じく忠臣の鑑として小学校の教科書にて必ず教えられた、日本人も皆その事蹟を熟知していた人物である。
非常に優秀であった文天祥の類い稀なる才能は、弱冠20歳で超難関で知られる科挙に及第した程である。
当時、既に南宋は衰退しきっており、更に勢力を増大していた元の侵攻によって宋が滅亡へと向かいつつある事を知りながらも、尚、主君を支えて戦い続けた。
奮戦も虚しく宋は滅亡。
文天祥は元に捕らえられて投獄されるが、かねてより彼の並外れた才能を大いに評価していた元の皇帝・フビライは、獄中の文天祥に対して自らの家臣となるよう、何度も勧誘し続けた。
しかし、文天祥は主君を変える事は忠節に反するとして、これを固辞し続ける。
かような獄中にあって、宋の残党軍への降伏勧告文書を書くことを迫られ、それを断った際にフビライに送った歌が『過零丁洋』である。

 

大意は以下の通り。

「進士に及第し身を興したが、国難にあって戦いに明け暮れる歳月を送るうち、山河は既に無く主君を無くした自分は雨にうたれる浮き草のようである。
国家滅亡の恐れを説きつつ身の零丁を嘆く事しかできぬ。
この世に死なぬ人間など居ぬ。
そうであるならば、節を貫き歴史に名を遺し逝きたいものだ」

 

宋の残党が全て壊滅せられし後も、フビライは文天祥の才能を惜しみ処刑に踏み切れず、彼に対して従属すべく説得を続けた。
元の朝廷内でも、文天祥の非常に高潔な人格を尊ぶ声も多く、彼を釈放すべきという意見まで挙がるようになり、フビライもその意見に傾いていたとされる。
そんな中、自らの忠節を貫かんという意思を籠め文天祥が詠んだのが有名な『正気の歌』。

 

「邪な心が蔓延り、正しい事が通らない世の中と成り果てた。
しかし、天地には正気(万物の正しい気の流れ)が満ちており、それが物事の根本を為す。 時代の節目には正気が現れて、その事蹟は歴史に永く語り継がれてきた。
自らが正しいと思う事を信じて節を貫徹し正気を貫きたいものだ。
国は失われて私は捕らわれの身となり、死を望んでも叶わず牢獄にあるが、私には正気が満ちているため病魔すら私に近寄れぬ程である。」

 

この歌の意を知り、文天祥の覚悟を知ったフビライは遂に惜しみつつも彼の死刑執行を決意する。
投獄されて以後、三年もの長きに亘る幽囚に於て一貫して死を望み続けた文天祥は、処刑台にて、嘗て主君のあった南宋の方角に向かって拝してから、刑を受けた。
享年47。
最期に際しての高潔な様を知ったフビライをして「真の男子なり」と評せしめ、その刑場跡には彼の高邁な精神を讃える「文丞相祠」なる祠も建てられた。

文天祥は、中国のみならず我国に於ても忠臣の鑑として後世に称えられてきた。
特に、主君に殉じて節を貫く覚悟を詠んだ『正気の歌』が多くの志士達の心を打った事は言うまでもない。
江戸期の儒学者・浅見絅斎が「靖献遺言」にてその事蹟を高く評価したほか、水戸学派にも大きな影響を与え、藤田東湖を始め広瀬武夫らも文天祥に肖り、それぞれ自作の『正気の歌』を作り、彼の偉業を偲んだと言われる。
吉田松陰の「留魂録」にも『正気の歌』の影響が窺える。
安易な変節を目の当たりにする事の多き昨今、永く日本人が美徳としてきた節を貫く正気の心を、我々の世代もまた子々孫々と伝えていきたいものだ。
特に、指導者たらんとする人々には正気を護持していただきたい。
「過零丁洋」の吟詠に耳を傾けつつ、男子たるものこそ此くあれかし、と感じた、そんなひと時であった。