第五回楠公研究会を間近に控えて、楠木正行の恋人・弁内侍(べんのないし)についてのトリビアを、田中俊資著「楠正行」を思い出しつつ引用。
弁内侍の父親であった公家・日野俊基は、後醍醐天皇の側近であったが、元弘の変の折、倒幕計画の主犯として鎌倉にて処刑された。
幼くして父親を亡くした弁内侍はその後、引き取られるようにして後宮の女官として入内、吉野朝随一を誇る絶世の美女として知られるようになっていく。...
その噂を聞き付け弁内侍に懸想したのは足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)。
彼は、好色家としても悪名高く、高貴な公家の姫や、武門高き武家の人妻等、手当たり次第に略奪しまくり、常時数十人の妾を囲っていたが、その他師直の悪逆非道っぷりを語り出すと尽きないので、以下略。
その師直が今度は弁内侍を我が物にしようと拉致を企み、外出中の内侍を襲ったのだが、その現場に偶然にも正行が通りかかり、賊を追払い弁内侍を救助した。
互いに一目で惹かれ合った二人は、間もなく、後村上帝のお引き合わせで再会。
内侍の正行への「思ふこと いはで心の うちにのみ つもる月日を 知る人のなき」という想いをお知しりになられた帝は、正行へ弁内侍を下賜すると申し伝えられた。
ところが、正行の母・久子がこの縁談に反対。
理由は、既に能勢の武家・内藤満幸の息女・恭子姫を正行の正妻に遇する形で楠木家に迎えていた為に弁内侍を側室としてしか迎えられぬ事、弁内侍が先帝・後醍醐天皇のお手付きであったという噂が蔓延していた事。
久子はこの縁談を「とても世に永らふべくもあらぬ身の仮りのちぎりをいかで結ばん」と、正行に無断で断ってしまう。
久子の反対をよそに、二人同じく幼くして父親を亡くしたが為に秘めてきた孤独と寂寞を互いに共有し理解を深めつつ、正行の吉野出仕の都度、両者の想いを深めていく。
才女であり、尚且つ、高貴な公家の姫君としての近寄り難き気品の中に、時折垣間見せる天真爛漫な少女のような一面を持つ弁内侍のギャップに、正行は更に惹き込まれていった。
そんなさなか、愈々、四條畷の戦いを迎える。
高師直率いる足利方の大軍を相手とする決死の戦いであった為に、正行は吉野の後村上帝へ暇乞いを奉上し、一族郎党、髻を切って如意輪寺の堂に投入れ過去帳代わりとした。
また、出陣前夜、正行は弁内侍を訪ね、父・正成の形見の短刀を授け、それを自分の形代にしてほしいと伝える。
出陣当日、正行は、如意輪寺の堂の扉に鏃で以て「かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」と辞世を刻み付け、出陣する。
その正行を、如意輪寺の木陰からこっそりと内侍が見送ったのが二人の訣別となった。
正平3年1月5日午後5時頃、四條畷に於いて、敗れた正行とその弟である正時は、父である正成とその弟の正季兄弟と同じく、兄弟刺し違えて自害、従っていた一族郎党悉く壮絶な最期を遂げた。
正行戦死の報を聞いた内侍の悲しみは非常に深く、正行の遺した形見の短刀で自ら髪を下ろし、「大君に 仕へまつるも 今日よりは 心にそむる 墨染の袖」として仏門に入り、亡き恋人の供養の為のみに余生を過ごしていく事を決意。
内侍は、自らの髪を正行の遺髪と共に如意輪寺の堂の傍に埋め、塚を建てる。
この塚は、「至情塚」と呼ばれ、現存し正行・弁内侍の恋物語を今に偲ばせる。
尚、正行が堂に刻んだ辞世や形見の菊水紋短刀等も拝観可能。
以上、第五回楠公研究会に因み、如意輪寺と弁内侍に纏わる秘話を、私の遠き記憶を総動員。
ご興味を持っていただいた方は、第五回楠公研究会へぜひお越しください。
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