楠寺参詣

新年は、相変わらず警察が入場規制をかけるほどに賑わう湊川神社には忌中の為に遥拝するに留め、湊川神社創建以前より大楠公墓所を御守りしてこられた広厳寺様へ御参りとご挨拶に伺った。

広厳寺は通称「楠寺」とも呼ばれ、かの吉田松陰が楠公墓碑拓本を入手したのも、ここ広厳寺を通してである事は言うまでもない。
メディアにもよく出演される人気のお坊様・千葉悠晃住職様には私の来訪を非常にお喜びくださり、お雑煮とお屠蘇の振る舞いも賜った。

また、千葉住職のご尊父様は、私が教授者を務める表千家の宗匠でもいらっしゃることもあり、意気投合。

お札はもちろんの事、楠公に関する貴重な資料もいただき恐悦至極。...

さて、この広厳寺は、正成が湊川合戦前日に当寺を訪れ住職と問答、大いに悟りを開き、後顧の憂いなく出陣していったとして知られる。
この資料は、湊川神社にも残っておらず、広厳寺にのみ伝わっている事を鑑みても非常に興味深い逸話である。
当時、延元元年旧暦5月24日、わずか七百の味方の兵を率いて足利尊氏の数十万の兵を迎え撃つ日の前日に、「生と死の迷いと不安」を克服し、平常心を保つにはどうしたら良いのかと、ここ広厳寺に明極楚俊(みんきそしゅん)和尚を尋ねた。
この時、明極和尚は以下のように説いた。
正成「生死交謝のとき如何」
明極「両頭ともに截断して、一剣天に倚って寒(すさま)じ」
正成「落処什麼生(そもさん)」
明極「汝、徹っせり」
正成、謝して曰く、
「若(も)し和尚に相見(しょうけん)せざれば、この快事を得する能(あた)わず」
訳:
「ここに至っては、もう生きるも死ぬも無い、生死で迷っているその頭を一剣で割ってみよ。 生への執着も、死への不安も、その両方の思いを一刀両断に断ち切ってそこに広がる天地を見よ。その気迫をもって、もう天命のまま行くだけだ」
「(剣の)落所は如何」と切り返す正成に対し、明極和尚は「善哉(よいかな)、善哉。それはお前自身だ」と一喝して言った。
正成は立ち上り、この教えに感謝しつつ「もし和尚にお会いし問答できなければ、今の悟りの境地に至ることができなかったでしょう」と、禅師に三拝して申し上げた。
その後、生死の迷いをすべて払拭した正成は、自らの進退への憂い無く死地・湊川へ赴き、新暦にして7月12日という炎天下に於いて、僅か7時間に16度もの突撃をかける死闘を尽くした末、見事な自刃を遂げたのである。
まさに、武士道の礎とも言うべき死生観への悟りを正成に開かせたのが広厳寺であったとも言えよう。