北畠神社参詣

湊川神社と同じく「建武中興十五社」の一社であり、三重県津市は美杉町多気の地に鎮座する北畠神社に参拝、宮崎宮司様より大変ご丁重なご対応を賜り正式参拝させていただました。

北畠神社は、御祭神として北畠顕能公・北畠親房公・北畠顕家公の三柱をお祀りする旧別格官幣社の社格を誇る神社です。

数々の戦乱の中に於いて五百有余年に亘り奇跡的に存続してきた北畠氏館跡庭園を宮司様に御案内いただきつつ、北畠氏の事蹟と歴史について御教授いただきました。

また、悠仁親王殿下のお印である「高野槇」数本が、殿下ご誕生直後に、北畠神社境内に新たに根付いたのを宮司様が発見されたそうで、皇室と北畠家との縁深い大変貴重な御苗を有難く拝領し、大切に植樹させていただきました。

「楠公研究会の資料に」と、北畠氏関連の書物も頂戴致しました。

さて、何故にこの美杉の地に北畠氏が本拠を置いたかと質問を受けられる事も多いそうですが、この地は、奈良は吉野から、北畠氏が国司を務めていた伊勢国へ至る「伊勢街道」の沿線であり、吉野・伊勢間の往来に都合が良かった事、また、山間の平地が少ない山あいであり、守りに固く攻め難い天然の要害としての機能を果たす地形である事等がその理由として挙げられます。
また、都の公卿であった北畠氏が、かような山間部に目を付けるに至った事も不思議ですが、その経緯としては、吉野から伊勢一帯で活動していた修験者らの助けや導きもあったと推測されます。
北畠親房公の死後、この多気の地を本拠とした後も、後南朝の小倉宮を守り室町幕府に抵抗、戦国期には織田信長の猛攻等、戦乱の絶えぬ動乱の歴史の連続でしたが、その中に於いて、北畠氏館の庭園は存続し続けました。
これはひとえに、長い歴史に於ける地元の方々のご尽力によるものと言えましょう。
この庭園は、滋賀県大津市の「旧秀隣寺庭園」と同じ作者・細川高国であり、幻想的なまでに繊細に美しい苔と荒々しく豪快な庭石との相反する美が絶妙に共鳴して生み出された景観には、思わず引き込まれました。

建武中興の瓦解の原因として、後醍醐天皇、そして北畠氏を始めとした公家の失政にあるという短絡的な認識が横行する中、その正確な因果をしっかりと認識する必要性を改めて強く感じさせられ、史実を正しく伝えていく決意を改めて固くいたしました。
大変お世話になりました宮崎宮司様に深謝です。