賀名生の里歴史民俗資料館

吉野朝の行宮・賀名生にも春到来。
楠木正行の死後、楠木家の家督を継承した大楠公三男・楠木正儀卿は、朝儀の為に頻繁に賀名生行宮に参内していたので、正儀卿の事蹟も多く伝わっている。
また、幕末期に楠公の精神のもと結成された天誅組とも関わりが深く、行宮の御門に掲げられた「皇居」の文字は吉村寅太郎の筆であったという。
賀名生の里歴史民俗資料館をお訪ねし、大変お世話になった資料館の鍵本様に深謝。

館内には、後醍醐天皇、後村上天皇、楠木一族、天誅組の貴重な資料が多数展示されており、吉野朝の歴史を深く学ぶ事ができる。
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…親房の前に一本の道がある。その道は遠く悠遠の過去に通じている。しかし前方は暗黒でよく見通し得ない。しかし親房は確信をもってその道を歩いている。この道以外に日本の道はないと確信している。唯一と信ずるこの道の左右前後に他人の足音を聞く。親房にしてみれば、それらの足音のする道は日本の道ではない。それは乱臣賊子の道であると信じ切っている。彼等の道が次第に広がって、それらの人々によって親房の道は次第にせばめられ、如何にも本来の道であるかのような様相を呈してきている。…
(「南朝と伊勢国司」宮崎有祥氏著より)

恐らくは、長い歴史の中で散っていった憂国の志士は皆、親房のこの思いと同じものに駆られ、その節に殉じていったのだと思う。
賀名生行宮後方に祀られている北畠親房公墓所にも久々に参拝。
親房公は、嫡男・顕家卿を失い、我が子を失くした深い悲しみにありながらも、自らの命が尽きるまで吉野朝の為に忠誠を尽くした。
親房の評価は戦後に至っては更なる大きな誤解の上に為されており、親房の孤独な戦いは未だ続いている。
正儀の正室・伊賀局は、後醍醐帝の后・廉子に仕えており、また、後に正儀の嫡男・正勝は、北畠氏と婚姻関係を結んだ為に、両家の繋がりは非常に強い。
伊勢楠氏の源流に、六百有余年の長い年月を経て尚、先祖の志がしっかりと遺されている事を目の当たりにする事により、楠木の血を引く自分にしかできぬ使命を痛感し、ようやく、私自身、力を得、再び奮起する事ができそう。
賀名生の山向こうには、黒木御所蹟もひっそりと残り、往時を伝えている。