水戸学の源流

会沢正志斎の寓居の屋敷跡は、現在の住友生命水戸ビル前にあたる。

会沢正志斎は、藤田幽谷に入門、後に彰考館総裁を務めた。
また、第9代藩主徳川斉昭やその子15代将軍徳川慶喜の師としても知られる。

幽谷から正志斎へと更なる発展を遂げていった水戸学の思想は、藩政治改革の指導理念となっていく。
特に文政8年(1825年)に著した「新論」は、我が国体に基づいた大改革の構想を示したもので幕末志士達の尊王攘夷論の教科書として熟読され、長州の吉田松陰、久留米の真木和泉守などに強い影響を与えた。

特筆すべきは、その著書「新論」や「草偃和言」の中で、楠公を始めとして国家に功績のあった人物を国家にて祭祀すべき事を説いている点であり、これが後の湊川神社、引いては、靖国神社鎮座への大きな後押しとなった事は言うまでもない。
また、水戸藩はもちろんの事、「今楠公」と呼ばれた真木和泉守の久留米藩でも、楠公崇敬の気運が高まっていく。
会沢正志斎は、これらの祭祀を復興する事により、忠孝心・敬祖心を起こし、神徳奉斎の念・敬神の念を生じさせる事により、民衆にもそれに敷衍していく事ができると、その著書の中で述べている。
当時の水戸藩は、幕府に憚り、「新論」を公表しなかったが、勤皇の志士らの間では、写本として広く読まれ、後世の尊皇攘夷の流れに多大な影響を与える事となった。